野生の誤読

翻訳・drama・読書

『ことばハンター 国語辞典はこうつくる』飯間浩明

三省堂国語辞典編集委員の飯間さんの子ども向けの書籍。

ことばが本当にお好きなのだな!終始にんまりしてしまう。

まちなかでの「ワードハンティング」のようす、幼少期からのことばへの関心から、国語辞典の編集員になるまでのいきさつ、実際にどのように解説を書くのかなど、言葉好きなら子どもでなくてもわくわくするエピソード。究極的には、辞書がひととコミュニケーションをとるときの相談役になれたらいいという。ことばを使うのはほかならぬ人間であって、人間がいなければ何も始まらない。ひとが変わればことばは変わる。それを嘆くでなく、裁くでなく。どんどん変化していくことばを真摯に追いかけて拾い上げる。ワードハンターというタイトルがふさわしい方だなと思った。

そういえば私も幼稚園のときにはカタカナ語を書き溜めるノートを作っていたし、小学校の低学年では朗読コンテストに出て賞をもらったり、田んぼ道を二宮金次郎スタイルで読書しながら歩いていて友達のお母さんに心配されたこともある。高学年ではクラスにガリ版刷りのエッセイを配っていた。飯間さんみたいに一筋ではないけれど、私も昔から言葉が好きだったんだ、そうだったそうだったと思い出すことができた。

そもそもどうして翻訳なのだろうと思わないこともない。

考えるたびに色々理由が浮かぶが、言葉から浮かぶイメージを自分の補足する範囲で確定して、違う形に移し替える作業に興味があるのだと思う。

表現というのは頭の中に描いたイメージをなにかの形で具現化することであって、ある意味では翻訳作業といえるだろう。描けなかったものもあるだろうし、意図的に描かなかったものもあるだろう。描きたかったものと最終的に違う形になることもあるし、描いたものが別の受け取られかたをすることもあるかもしれない。芸術表現においてはその余地や飛躍が単純な移し替えにはない面白さを生みだすことがある。いつもそこにまつわるものに興味がある。

ただ言語の翻訳という形、特に実務翻訳では、移管される「絵」の内容に相違があってはならない。命がかかわってくることもあるからだ。

それでも、そこからはみ出してくるものは面白みにあふれていて、想像力を掻き立てられる。うんざりはするが、嫌いになれない友人みたいに。そういうものから、新たなコミュニケーションが生まれそうに思うけれど、そういうものと仲良くやっていくためには相当の体力が必要である。ことばを扱うもののはしくれとして、基礎体力をつけていこうと改めて思った。