野生の誤読

翻訳・drama・読書

マイク・フラナガン監督『The Haunting of Hill House』ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス(2018)

同監督の『Midnight Mass』真夜中のミサが哲学的で良かったので、遡って観た。

全10話。本作はシャーリイ・ジャクスン原作だが現代版に翻案するにあたって物語は大きく改変されている模様。

屋敷を改装しては高く売ることを生業としていた夫妻と、その5人の子らは古い洋館ヒルハウスでひと夏を過ごすことになる。美しい外見とは裏腹に怪異の多発する屋敷、進まない改装、少しずつ精神を蝕まれる妻、そこに悲劇が起こる。約25年後、きょうだい達は再び壊れた家族と向き合うことになり、ヒルハウスへと舞い戻る。

とてもよくできていたし面白かったが、精神的につらいものがあり、万人にはお勧めできない。自死遺族の方にもあまり。

屋敷自体がいつから狂気を帯びているのかはわからないが、子供を幽玄の世界に止めおきたい親そのもののような印象もある。外の世界には恐ろしいことや苦痛、心配事がたくさんあり、それに身をさらすよりはむしろ、命を絶つことにより人生を終わらせることが夢(=恐ろしい現実)から覚めることであって、幸せなままの次元に生まれなおすこと、この屋敷で永遠に美しい子供時代の姿のままに存在し続けることを誘う。

壁の内側に留めて外に出させない、守ってやろうとする作用そのもの、その力の権化みたいな、家の姿をした怪物。

怪物が見せるのは願望であり、後悔したことであり、やましい感情であり、痛みであり、そして恐怖である。そういったもので目を曇らせ、幻惑し、過去や乗り越えられない思い、物事の核心から目を背けさせる。

それは家父長制という怪物と呼べるかもしれない。その長年にわたって積もった怨念に、妻であり母であったオリヴィアは絡め取られてしまったのかもしれない。

彼女は本来聡明な女性で、ビジネスパートナーとして夫と対等な関係を築いていたはずである。ep9の最後、彼女が屋敷の餌食になった後に回想シーンが入る。ヒルハウスに足を踏み入れた最初の日、はしゃいで自室へ我先に駆け出す子供たちを見て、オリヴィアは夫に言う。

"You guys go on without me."(私なしで大丈夫よ)

夫・ヒューはあきれるように"How could we?"(まさか)

このときのオリヴィアの服装はキャミソールにショートパンツで、それまでのシーンで着ていた引きずるようなドレスではない。活動的で、自立した、外へ出ていく女性の恰好だ。

本来彼女は自分なしでも子供たちは元気にやっていける、自分の人生を歩んでいけると知っていたと思う。ルークを墓に引きずり込もうとしたり、葬儀場で「永遠の家」を壊したオリヴィアは恐らくは彼女自身でなく、家の化身であるといえるだろう。もちろんネルをあんな姿にしたのもオリヴィアではない。

家父長制が多くの家族を引き裂いたり壊してきたことは紛れもない事実だと思う。対等な関係を築けなくさせ、外に出て活躍する機会を奪う。

父はそれを「修復」しようとした。彼は彼で家父長制から自由ではなかったけれど、最後にヒルハウスと戦うことで、子供たちを生かす道を見つけたので、役目を果たしたといえるのかも。何をもって修復というのだろう。本当は、あの家をぶち壊さなければならないのだから。

ネルは命を失ったが、きょうだいの目を覚ましてくれた。現実と向き合って生きなおすことを彼らに与えた。それでも彼女が死ぬ必要は本当にあったか。

最後、彼女と父母は幸せそうな姿にも見えたが、それもきょうだいの願望かもしれない。

あのような形で死ぬことが幸せであるとは私には思えない。でも今まで家父長制のお化けと闘って露と消えたひとびとがいて、私たちは今この瞬間を生きているのだから、そういった先人たちのことを思うべきなのかもしれない。

ただ、この物語の主人公っぽい感じが強い長男スティーブンが最終的に子供を持つ選択をすること、それ自体に対しては家の悲劇とその再生産を恐れてパイプカットした過去を清算したということで理解はできるのだが、シスヘテロカップルが子供を産み育てる伝統的な家族を継承した形であり、それを結末に持ってきていることがなんとなくモヤる。まあヨリも戻ってめでたしであるし、私も将来子供を持つことはやぶさかではないけれど。このあたりに私のこだわりというか、反発するポイントがあるんだなと思った次第。